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2011年10月16日

阪神淡路大震災

 東日本大震災関連のテレビ番組を見る度に思い出すことがある。それは十六年前の阪神淡路大震災のことだ。
 
 その当時、私は英国のケンブリッジに住んでいた。月曜日から金曜日にかけて、自分用の時間割を組み、毎日大学の講義棟に出掛けてもぐり聴講を続けていた。顔見知りとなったハーベイ教授の大学院の授業にまで出席し、ご自宅での講義にまで出かけた。

 二時間続きのハーベイ教授の授業は、挿絵及びその画家たちについてのもので、ウィリアム・ホガースの絵が語る物語や、絵の象徴するものの読み解き方、詩人であり、画家であり、彫り師でもあったウィリアム・ブレイクの絵についての解釈の仕方などであった。一時限目の学部の授業には十五・六名の学生がいたのに、二時限目の大学院の授業には私を含めて三名の生徒しか残っていなかった。このハーベイ教授に指導を受けながら研究生活をしている女性学者に、清水さんの奥さん、私と一緒にハーベイ先生の授業を受けて下さいね、来週の授業を絶対に欠席しないで下さいね、と言われ続けていたが、欠席する気はサラサラなく、ハーベイ教授の授業を楽しんでいた。
 
 娘が寄宿舎学校に入学していることを良いことにして、「バッテリー」と呼ばれる学生向けのカフェテリアでお茶を飲んだり、時には夫と待ち合わせて軽食を食べ、その後また講義に出たりして、午後三時頃まで講義棟の付近で過ごしていた。

 その日は予定に入っていた授業が中止になったので、いつものように講義棟の付近で時間を潰すことはせず、帰宅することにした。

 玄関口の階段に足をかけた途端に、家の中から電話のベルの鳴る音が聞こえた。大急ぎでドアを開けて、転がるように受話器を取ると、それはシェルダン夫人からのものであった。

 彼女はフランス人で、亡くなられたご主人はケンブリッジ大学の日本語科の教授であったそうだ。彼女のフランス語訛りの英語はなかなかに魅力的であった。ご主人も彼女の英語が大好きで、フランス語訛りを直さないように、と言われたので私は英語が下手なのよ、と言って笑っていた。

 毎年ケンブリッジ大学には多くの学者たちが学びに来ていて、その同伴者たちもいる。その人達の中には英語が話せず孤独に陥る人も出る。そういった人達を出さないため、話し相手になったり、相談に乗ったりするためのボランティア・グループがあった。シェルダン夫人はそのグループの一員であって、私を担当することになった。中学生の娘を連れた、中年のオバサンの私は彼等の心配の種であったのだ。私が彼女の助けを必要としないことが分かると、夫人は年上の友人として自転車で遊びに来るようになっていた。

 彼女は、どこに行っていたの、テレビを見ていないわね、今、日本で大変なことが起こっているようだから、すぐテレビをつけなさい、それじゃあ切るわね、と早口で喋った。スウィッチを入れると、ブラウン管に映るその画面は目を被うばかりの瓦礫の山であった。一体何事なんだろう、アッ地震だ、と思った瞬間、セントラル・ジャパンのレポーターの声が耳に飛び込んできた。その言葉に、一瞬名古屋だ、この地震は名古屋で起こったに違いない、と思った。画面は延々と続く瓦礫の山を映していた。コウベィは日本の本州の中央に位置しており、のテレビから流れ出る声に、この大惨事は神戸で起こったもの、と理解した。目の前の、余りの出来事にレポーターの説明は耳に入らず、ただテレビ画面を見つめて、テレビの前に座り込んだ。胸のざわめきで居ても立ってもいられず、部屋の中を歩き始めたが、目だけはテレビ画面を見続けていた。夕食の支度などできる状態ではなかった。

 翌日も神戸の様子が次から次へと映し出されていた。空高く昇る黒煙、チロチロ燃える火、まだ燻る焼け跡、ぺちゃんこに押し潰された家並みと屋根と瓦、倒壊した高速道路を見つめていた。家事をする気持ちのゆとりもなく、テレビの前に座り続けて、同じ画面を見続けていた。もぐり聴講どころではなくなっていた。

 世界は広い。種々様々な出来事、事件は次から次へと起こり、テレビは次々とそれらを報道する。前日と同じように映し出されると思って、テレビの前に座り込んだ私の目に映るのは、日本の姿ではなく、全く別の英国国内のニュースや北アイルランド関連のニュースとなっていた。神戸のニュースはわずかに朝、昼、晩のニュースの時間に報道されるだけに減ってしまっていた。私のイライラは増し、ますます落ち着かなくなった。

 テレビが駄目なら、新聞だ、と買いに出掛けた。私達の住む家の近所は昔ながらの住宅地なので、新聞販売店はない。バスに乗り、シティ・センターに出掛けて、各種の新聞を手に入れた。

 内容はどの新聞も同じようなものだったが、その中で私を驚かせたのは、援助の手がまだ入っていない神戸で、ヤクザが困っている被災者に水や食品を配っているという記事だった。私の頭にあるヤクザは、抗争で所有を許されていないピストルで撃ち合い、死傷者を出したとか、病気で入院している他の組の親分と間違えて、一般の人を撃ってしまった、といったニュースで知るようなことをする人達のことだ。政府の援助が入る前に、困っている被災者に必需品を届けていたのが、ヤクザだとは到底信じられなかった。だが、そのことを確かめようにも、そのすべはなかった。

 それから数年が過ぎた。高校の同窓会の関西支部総会に出席した折、配られた小冊子に阪神淡路大震災にボランティアとして神戸に入った人の手記が載っていた。それを読み、あの「タイムズ」紙の記事は本当だったんだ、嘘ではなかったんだ、と確かめることができた。

 東日本大震災の時でもそうであったように、日本人の我慢強さ、礼儀正しさが賞賛され、褒め称えられていた。給水車から水の配給を受けるため、長蛇の列ができているのに、顔に笑みさえ浮かべて、文句も言わず、騒ぎもせず自分の順番を待っている、と驚きを込めて書かれてあった。この記事を読んだ時、さすが日本人と思わずにはいられなかった。

 その当時、暑い夏の日の夜に、ロンドン郊外の貧しい地域では、些細なことが切っ掛けで自然発生的に暴動が発生していた。何軒かの商店が略奪にあい、高価な品が持ち去られたり、焼打ちに遭ったりしていた。時の政府は、毎年のように起こるこの暴動騒ぎに手を焼き、ガス抜き策としてパブの営業時間を大幅に伸ばし、終夜とした。実際には、パブに真夜中に出かける人はめったに居ないのではないか、と思う。私自身も夏のまだ明るい夕方六時頃に出掛けたことはあるが、真夜中に出掛けたことはないのだから、本当のところは分からない。ともかく政府のこの企ては見事に当たり、以後自然発生的な暴動は起きなくなった。

 あのような大惨事の起こった神戸で、暴動も略奪も起さないのは、英国からやって来ている新聞記者を相当に驚かせたらしく、神戸の人たちの素晴らしさが書かれてあった。

 「神戸」の呼び方についても反省が掲載されていた。我々は英語が世界で使われているせいか、他の言語に対して鈍感だ、レポーターは「神戸」を「コウベィ」と発音しているが、「コウベ」である。「コウベ」の「ベ」が発音し難いからといって、‘bay’で代用するのではなく、「ベ」と発音すべきである、と述べられてた。その通りだ、やっと気付いたか、と私は思った。

英字新聞を読んで日本のことを知ろうとしても、しかも大震災の詳しいことを知ろうとしても、ワン・クッションを置いているように、どうも心の中にすっと入って来ないし、ピンとこない。

 そこで、ケンブリッリジ大学の東洋学部の小さな図書館に出掛けて、日本語新聞を読むことにした。「読売新聞」の電子縮小版が毎日この図書館に寄贈され、送られて来ていた。この新聞は午後一時頃には到着していて、読むことができた。ただ難点は縮小版だけに、長い記事が途中で切られていて、もっと知りたいと思うのに、読めないことだ。不満が残った。

 日本語で読む震災の記事は、心に直接に触れ、たちまちの内に文字が霞んで、読めなくなった。拭っても拭っても、溢れ出る涙を止めることができなかった。倒れてしまっている高架線の道路、その道路で車体を半分宙に浮かせたスキー帰りの大型バス、テレビでも見た瓦礫の山、いずれの写真も涙の元となった。同じ記事を二度、三度と読み返すが、その度に涙が出る。若い東洋人が、涙を流す私を見ながら、不思議そうな顔をして私のそばを通り過ぎて行った。

 この新聞を読むために、三日通った。亡くなられた人達の名前が多数載っていることにも気付いて、知人の名前がないか、とゆっくり確かめてゆく。辛い作業であったが、幸いなことに知人の名前はなく、ホッと安堵した。

 地震直後に名古屋に住む娘に毎日電話をしたが、‘Temporarily destructed(一時的に故障)’と機械的な音声が戻ってくるばかりであった。また芦屋に住む友人が気掛かりで電話をかけたが、同じ機械的な返事を聞くばかりであった。だが、三日後娘から、ひどい揺れで目を醒ましたが、何事もなかったから、安心して、と知らせがあった。芦屋の友人から、住んでいたマンションの一・二階は潰れたが、四階に住んでいたので無事であった、でも、もう芦屋には住めないから、長岡京市に引っ越した、とファックスが届いたのは一ヶ月後であった。もちろん、この期間中、私のもぐり聴講は自主休講である。

 二月に入り、被災された人々のために、何らかのチャリティーをしようという話が持ち上がった。あのような大震災が起こったのに、ケンブリッジに住む日本人が何もしないのは、日本人は冷たいと思わせることになるから、何かをすべきだ、というのだ。ケンブリッジ大学に留学している学者の奥さん達や、ケンブリッジ近郊にある日系企業に赴任中の会社員の奥さん達とが力を合わせて、健康に良い、と考えられている日本食を各々が作り、それを持ち寄ってチャリティーを行うことになった。会場は大学院大学のダーウィン・コレッジのホールを借りることに決め、フリー・ペーパーに広告を載せてもらって、周知徹底を狙った。

 子供連れでケンブリッジに在住する家庭では、小さくなって着られなくなった子供服がある。その子供服も買ってもらうことにした。

 チャリティー当日は、どこに隠れていたのか、と思うほどの日本人が姿を見せてくれた。ダーウィン・コレッジのホールが狭すぎると感じられるほどの人数であった。並んだ日本食の品数は予想していたものより多かった。提供された日本食はバラエティーに富み、異国の地でこんなに多くの種類の日本食が作れるものか、と自分自身がこの地に住み、材料が無く日本食を作る難しさが身に沁みている私が、感心してしまう程の数であった。チャリティーに参加された人達は手間隙を惜しんではいらっしゃらなかった。午前十時から集まって下さった大多数の若者たちは大学の学生さんというより、語学学校の学生さんのように見受けられた。日本食が懐かしいらしく、嬉しそうに頬張って下さっていた。シェルダン夫人も様子を見に来てくれて、小さな品を買って下さった。イギリス人も数多くきてくれて、これは何ですか、ダンプリングですよ、などと私達と遣り取りをして、その品を買って下さった。時折、私の提供した日本食が売れているか、横目で確かめながら、私は他の人の作った日本食の販売をしていた。そして午後も二時半になると、提供された日本食は全て売れた。

 このチャリティーの売り上げをロンドンの日本大使館に届けて頂くよう仲間のお二人に託し、私はまたもぐり聴講に戻った。講義棟へ出掛ける日々を二週間ほど過ごし、イースターを迎える直前、学期半ばで私達一家はオックスフォードへと引っ越した。

タグ :豊川堂英語

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Posted by 豊川堂英語教室 at 12:38│Comments(0)顧問 清水宏子より
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