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2011年11月23日

バドミントンとストンヘッジ




 もう十年も前になろうか、高校時代はバドミントン部に所属し、長じて母校の教師となって、バドミントン部の顧問をしていた、かっての教え子から尋ねられた。それは、バドミントンというスポーツは、イギリスのバドミントン村で始まった、と言われているんですけど、そのバドミントン村がどこにあるか、ご存知ですか、というものであった。その時は気楽に、知らないけど探してみるね、と答えておいた。漠然と、あんな狭いコートしか要らないのだから、平坦な土地の少ない、スコットランドにあるに違いない、と勝手に決め付けていた。

 イギリス生まれのスポーツはいくつかある。ラグビーがかの有名なパブリック・スクールのラグビー校で生まれたことは知っていて、四十年近くも前にそのラグビー校を訪ねたことがあった。どこの国の子供も好奇心は強いもので、私たちを見ると、三人の生徒がハウス(寄宿舎)から飛び出してきて、どこから来たの、中国人なの、当時二歳だった娘を指して、この子は何歳なんですか、と矢継ぎ早に質問を浴びせかけてきた。ハウスを見ると、その窓という窓から少年たちが顔を見せて私たちを眺めていた。その当時は幼い子供を連れた東洋人は珍しかった。

 野球はクリケットの変化したものである、とも聞いた。クリケットの、あのゆっくりと、のんびりした試合運びは、見物している私の方が疲れてしまう。ティー・セットを一式持ち込み、ゆっくりティーを飲み、サンドウィチでも摘ままないと、間が持てない。囲碁のように頭を使うスポーツであるというが、私は試合の最後まで見たことがないし、詳しくルールを知らないので、そこのところは分からない。正式の試合は三日ががりであるということだ。
                             
 バドミントンがイギリスで始まったものであるとは、全く知らなかった。バドミントンのラケットは子供のいるどこの家庭にもあって、よく公園で子供同士で、親子で、バドミントンをする姿をよく見かける。

 スコットランドへ行った時も、三十五年振りに再訪した湖水地方でも、手に取る地図の中にバドミントンの文字を探した。どこへ出かけても、地図を手にしては無意識のうちに「バドミントン」の文字を探していた。勿論オックスフォードの近郊の村々も探してみた。だが、バドミントン村を探すのは難しくて、見つけるのは少々無理かな、と思い始めていた。

 今年の夏、娘が自分の子供にストーンヘンジを見せたい、バースまで電車で行って、そこで半日バス・ツアーに乗る、と言って出かけた。

 その娘が三歳の時、私たちは冬のある日、このストーンヘンジ見物に車を走らせた。イギリスの冬は早く日が暮れる。十一月ともなると、三時半には街路灯に灯がともる。薄暗くなり始めた頃、車で走っていると、遥か遠くに、巨大な石の群れが見えた。あれが有名なストーンヘンジだと夫と話し合いながら、車をひた走りに走らせたが、なかなかに巨石群のもとにはたどり着かなかった。それ程にストーンヘンジは巨大なものであって、周りには何もなかった。広い広い牧草地の中に、ポツンと巨大な石の群れが突っ立っていた。冬のため、牧草地は茶色で、寒々としていた。観光客もなく、巨石を見上げていたのは、私たち一家と、父親と息子の二人連れだけでだった。巨石の側に行き、その石に自由に触ることができた。この巨石群は見事なほどに大きくて、比べて見るものが周りに無くて、一体どの位の大きさなのか、見当がつかないほどであった。静けさの中に、寒さのなかに、巨石群は立っていた。

 それから二十数年を経て、世界遺産に指定されたと知った私は二人の娘を連れてストーンヘンジ見物にでかけた。それを見て、腰を抜かすほどに驚いた。三十数年前のストーンヘンジとは似ても似つかぬ姿となっていた。巨石群全体が金網で囲われ、入場料を払ってその金網の中に入ると、さらに巨石が一石または一塊で、また金網で囲まれていたのだ。思い出に残るストーンヘンジとは全く異なるものとなっていた。金網越しに見るストーンヘンジは情緒もなく、夏であったせいか、明るい太陽の下、世界中から観光客が押し寄せていた。二重の金網に囲まれた狭い空間は、まるで芋の子を洗うほどの人の数であった。

 ストーンヘンジから帰ってきた娘が、観光バスのパンフレットを見せながら、その日一日の旅を語る言葉に耳を傾けていた。ふとそのパンフレットに目をやると、なんと「バドミントン」の文字があるではないか。あれほど探した「バドミントン村」がコッツウォルドの只中にあるなんて、夢にも思わなかった。しかも、何度も出かけたバース、カッスルクーム、テトベリーの近くにあり、ひょっとすると、バスで通り抜けたかも知れないのだ。何度も「バドミントン」の文字を確かめ、スペルが違うのではないか、と疑った。

 このパンフレットによると、バドミントン村は美しく、ボーフォート公爵の地所にあり、スポーツのバドミントンは1870年にバドミントン・ハウスで考え出された、とある。

 十年もの間探し続けたバドミントン村を、ついに見い出せたことが嬉しく、自慢でならなかった私は、帰国するや、重い課題を押し付けた本人に、パンフレットのコピーを送った。送られた本人は電話口の向こうで、大変に冷静で、どうやら私に宿題を出したことすら忘れてしまっているらしかった。長年の宿題を果たせたことで手柄を立てた気になり、高揚していた私は拍子抜けをしてしまった。

 ぜひとも来年はこのバドミントン村を訪ね、スポーツのバドミントンの生まれたバドミントン・ハウスを見なくては、という私に、娘は折角出掛けても、どこにでもある、普通の小さな村かも知れないよ、と言う。しかし、美しい村々のある、コッツウォルドの真ん中にあるのだから、きっと蜂蜜色の石造りの古い家並みの立ち並ぶ、こじんまりした美しい村に違いない、と私は思っている。

清水 宏子  

Posted by 豊川堂英語教室 at 15:32Comments(0)顧問 清水宏子より

2011年10月16日

阪神淡路大震災

 東日本大震災関連のテレビ番組を見る度に思い出すことがある。それは十六年前の阪神淡路大震災のことだ。
 
 その当時、私は英国のケンブリッジに住んでいた。月曜日から金曜日にかけて、自分用の時間割を組み、毎日大学の講義棟に出掛けてもぐり聴講を続けていた。顔見知りとなったハーベイ教授の大学院の授業にまで出席し、ご自宅での講義にまで出かけた。

 二時間続きのハーベイ教授の授業は、挿絵及びその画家たちについてのもので、ウィリアム・ホガースの絵が語る物語や、絵の象徴するものの読み解き方、詩人であり、画家であり、彫り師でもあったウィリアム・ブレイクの絵についての解釈の仕方などであった。一時限目の学部の授業には十五・六名の学生がいたのに、二時限目の大学院の授業には私を含めて三名の生徒しか残っていなかった。このハーベイ教授に指導を受けながら研究生活をしている女性学者に、清水さんの奥さん、私と一緒にハーベイ先生の授業を受けて下さいね、来週の授業を絶対に欠席しないで下さいね、と言われ続けていたが、欠席する気はサラサラなく、ハーベイ教授の授業を楽しんでいた。
 
 娘が寄宿舎学校に入学していることを良いことにして、「バッテリー」と呼ばれる学生向けのカフェテリアでお茶を飲んだり、時には夫と待ち合わせて軽食を食べ、その後また講義に出たりして、午後三時頃まで講義棟の付近で過ごしていた。

 その日は予定に入っていた授業が中止になったので、いつものように講義棟の付近で時間を潰すことはせず、帰宅することにした。

 玄関口の階段に足をかけた途端に、家の中から電話のベルの鳴る音が聞こえた。大急ぎでドアを開けて、転がるように受話器を取ると、それはシェルダン夫人からのものであった。

 彼女はフランス人で、亡くなられたご主人はケンブリッジ大学の日本語科の教授であったそうだ。彼女のフランス語訛りの英語はなかなかに魅力的であった。ご主人も彼女の英語が大好きで、フランス語訛りを直さないように、と言われたので私は英語が下手なのよ、と言って笑っていた。

 毎年ケンブリッジ大学には多くの学者たちが学びに来ていて、その同伴者たちもいる。その人達の中には英語が話せず孤独に陥る人も出る。そういった人達を出さないため、話し相手になったり、相談に乗ったりするためのボランティア・グループがあった。シェルダン夫人はそのグループの一員であって、私を担当することになった。中学生の娘を連れた、中年のオバサンの私は彼等の心配の種であったのだ。私が彼女の助けを必要としないことが分かると、夫人は年上の友人として自転車で遊びに来るようになっていた。

 彼女は、どこに行っていたの、テレビを見ていないわね、今、日本で大変なことが起こっているようだから、すぐテレビをつけなさい、それじゃあ切るわね、と早口で喋った。スウィッチを入れると、ブラウン管に映るその画面は目を被うばかりの瓦礫の山であった。一体何事なんだろう、アッ地震だ、と思った瞬間、セントラル・ジャパンのレポーターの声が耳に飛び込んできた。その言葉に、一瞬名古屋だ、この地震は名古屋で起こったに違いない、と思った。画面は延々と続く瓦礫の山を映していた。コウベィは日本の本州の中央に位置しており、のテレビから流れ出る声に、この大惨事は神戸で起こったもの、と理解した。目の前の、余りの出来事にレポーターの説明は耳に入らず、ただテレビ画面を見つめて、テレビの前に座り込んだ。胸のざわめきで居ても立ってもいられず、部屋の中を歩き始めたが、目だけはテレビ画面を見続けていた。夕食の支度などできる状態ではなかった。

 翌日も神戸の様子が次から次へと映し出されていた。空高く昇る黒煙、チロチロ燃える火、まだ燻る焼け跡、ぺちゃんこに押し潰された家並みと屋根と瓦、倒壊した高速道路を見つめていた。家事をする気持ちのゆとりもなく、テレビの前に座り続けて、同じ画面を見続けていた。もぐり聴講どころではなくなっていた。

 世界は広い。種々様々な出来事、事件は次から次へと起こり、テレビは次々とそれらを報道する。前日と同じように映し出されると思って、テレビの前に座り込んだ私の目に映るのは、日本の姿ではなく、全く別の英国国内のニュースや北アイルランド関連のニュースとなっていた。神戸のニュースはわずかに朝、昼、晩のニュースの時間に報道されるだけに減ってしまっていた。私のイライラは増し、ますます落ち着かなくなった。

 テレビが駄目なら、新聞だ、と買いに出掛けた。私達の住む家の近所は昔ながらの住宅地なので、新聞販売店はない。バスに乗り、シティ・センターに出掛けて、各種の新聞を手に入れた。

 内容はどの新聞も同じようなものだったが、その中で私を驚かせたのは、援助の手がまだ入っていない神戸で、ヤクザが困っている被災者に水や食品を配っているという記事だった。私の頭にあるヤクザは、抗争で所有を許されていないピストルで撃ち合い、死傷者を出したとか、病気で入院している他の組の親分と間違えて、一般の人を撃ってしまった、といったニュースで知るようなことをする人達のことだ。政府の援助が入る前に、困っている被災者に必需品を届けていたのが、ヤクザだとは到底信じられなかった。だが、そのことを確かめようにも、そのすべはなかった。

 それから数年が過ぎた。高校の同窓会の関西支部総会に出席した折、配られた小冊子に阪神淡路大震災にボランティアとして神戸に入った人の手記が載っていた。それを読み、あの「タイムズ」紙の記事は本当だったんだ、嘘ではなかったんだ、と確かめることができた。

 東日本大震災の時でもそうであったように、日本人の我慢強さ、礼儀正しさが賞賛され、褒め称えられていた。給水車から水の配給を受けるため、長蛇の列ができているのに、顔に笑みさえ浮かべて、文句も言わず、騒ぎもせず自分の順番を待っている、と驚きを込めて書かれてあった。この記事を読んだ時、さすが日本人と思わずにはいられなかった。

 その当時、暑い夏の日の夜に、ロンドン郊外の貧しい地域では、些細なことが切っ掛けで自然発生的に暴動が発生していた。何軒かの商店が略奪にあい、高価な品が持ち去られたり、焼打ちに遭ったりしていた。時の政府は、毎年のように起こるこの暴動騒ぎに手を焼き、ガス抜き策としてパブの営業時間を大幅に伸ばし、終夜とした。実際には、パブに真夜中に出かける人はめったに居ないのではないか、と思う。私自身も夏のまだ明るい夕方六時頃に出掛けたことはあるが、真夜中に出掛けたことはないのだから、本当のところは分からない。ともかく政府のこの企ては見事に当たり、以後自然発生的な暴動は起きなくなった。

 あのような大惨事の起こった神戸で、暴動も略奪も起さないのは、英国からやって来ている新聞記者を相当に驚かせたらしく、神戸の人たちの素晴らしさが書かれてあった。

 「神戸」の呼び方についても反省が掲載されていた。我々は英語が世界で使われているせいか、他の言語に対して鈍感だ、レポーターは「神戸」を「コウベィ」と発音しているが、「コウベ」である。「コウベ」の「ベ」が発音し難いからといって、‘bay’で代用するのではなく、「ベ」と発音すべきである、と述べられてた。その通りだ、やっと気付いたか、と私は思った。

英字新聞を読んで日本のことを知ろうとしても、しかも大震災の詳しいことを知ろうとしても、ワン・クッションを置いているように、どうも心の中にすっと入って来ないし、ピンとこない。

 そこで、ケンブリッリジ大学の東洋学部の小さな図書館に出掛けて、日本語新聞を読むことにした。「読売新聞」の電子縮小版が毎日この図書館に寄贈され、送られて来ていた。この新聞は午後一時頃には到着していて、読むことができた。ただ難点は縮小版だけに、長い記事が途中で切られていて、もっと知りたいと思うのに、読めないことだ。不満が残った。

 日本語で読む震災の記事は、心に直接に触れ、たちまちの内に文字が霞んで、読めなくなった。拭っても拭っても、溢れ出る涙を止めることができなかった。倒れてしまっている高架線の道路、その道路で車体を半分宙に浮かせたスキー帰りの大型バス、テレビでも見た瓦礫の山、いずれの写真も涙の元となった。同じ記事を二度、三度と読み返すが、その度に涙が出る。若い東洋人が、涙を流す私を見ながら、不思議そうな顔をして私のそばを通り過ぎて行った。

 この新聞を読むために、三日通った。亡くなられた人達の名前が多数載っていることにも気付いて、知人の名前がないか、とゆっくり確かめてゆく。辛い作業であったが、幸いなことに知人の名前はなく、ホッと安堵した。

 地震直後に名古屋に住む娘に毎日電話をしたが、‘Temporarily destructed(一時的に故障)’と機械的な音声が戻ってくるばかりであった。また芦屋に住む友人が気掛かりで電話をかけたが、同じ機械的な返事を聞くばかりであった。だが、三日後娘から、ひどい揺れで目を醒ましたが、何事もなかったから、安心して、と知らせがあった。芦屋の友人から、住んでいたマンションの一・二階は潰れたが、四階に住んでいたので無事であった、でも、もう芦屋には住めないから、長岡京市に引っ越した、とファックスが届いたのは一ヶ月後であった。もちろん、この期間中、私のもぐり聴講は自主休講である。

 二月に入り、被災された人々のために、何らかのチャリティーをしようという話が持ち上がった。あのような大震災が起こったのに、ケンブリッジに住む日本人が何もしないのは、日本人は冷たいと思わせることになるから、何かをすべきだ、というのだ。ケンブリッジ大学に留学している学者の奥さん達や、ケンブリッジ近郊にある日系企業に赴任中の会社員の奥さん達とが力を合わせて、健康に良い、と考えられている日本食を各々が作り、それを持ち寄ってチャリティーを行うことになった。会場は大学院大学のダーウィン・コレッジのホールを借りることに決め、フリー・ペーパーに広告を載せてもらって、周知徹底を狙った。

 子供連れでケンブリッジに在住する家庭では、小さくなって着られなくなった子供服がある。その子供服も買ってもらうことにした。

 チャリティー当日は、どこに隠れていたのか、と思うほどの日本人が姿を見せてくれた。ダーウィン・コレッジのホールが狭すぎると感じられるほどの人数であった。並んだ日本食の品数は予想していたものより多かった。提供された日本食はバラエティーに富み、異国の地でこんなに多くの種類の日本食が作れるものか、と自分自身がこの地に住み、材料が無く日本食を作る難しさが身に沁みている私が、感心してしまう程の数であった。チャリティーに参加された人達は手間隙を惜しんではいらっしゃらなかった。午前十時から集まって下さった大多数の若者たちは大学の学生さんというより、語学学校の学生さんのように見受けられた。日本食が懐かしいらしく、嬉しそうに頬張って下さっていた。シェルダン夫人も様子を見に来てくれて、小さな品を買って下さった。イギリス人も数多くきてくれて、これは何ですか、ダンプリングですよ、などと私達と遣り取りをして、その品を買って下さった。時折、私の提供した日本食が売れているか、横目で確かめながら、私は他の人の作った日本食の販売をしていた。そして午後も二時半になると、提供された日本食は全て売れた。

 このチャリティーの売り上げをロンドンの日本大使館に届けて頂くよう仲間のお二人に託し、私はまたもぐり聴講に戻った。講義棟へ出掛ける日々を二週間ほど過ごし、イースターを迎える直前、学期半ばで私達一家はオックスフォードへと引っ越した。
  
タグ :豊川堂英語

Posted by 豊川堂英語教室 at 12:38Comments(0)顧問 清水宏子より

2011年09月21日

テンプル教会

 

 テンプル教会を訪ねたい、と長い間願っていた。実は六年前に訪ねたことがあったが、補修工事をしていて、中には入れず、外見だけ眺めて帰ってきた。この教会の建つテンプル地域はテンプル騎士団がロンドンの拠点とした地域であったという。歴史に詳しい知人に、テンプル騎士団は一種の秘密結社であり、金貸し集団であった、と聞くに及んで、私の想像は大きく膨らんで、ぜひとももう一度訪ねなくては、の思いはますます強くなった。ところが、映画「ダビンチ・コード」の一場面がこのテンプル教会で撮影された、と知って、この見たい、行きたい、の気持ちが萎んでしまった。そして三年が過ぎた。


 でも、と考えた。寄る年波、来年また英国に来ることができるかどうか、分かったものではない。ここに居るのを幸い、今年こそ見ておくべきだ、と思ったのだ。


 午前中、ロンドンでの用事を済ませて、テンプル教会へ行こうと、ビクトリア地下鉄駅に行くために地下に潜った。地下は大きな荷物を持った観光客でごった返し、熱気でムンムンしていた。切符の自動発券機の前には長い列で、人々はうんざりした顔で自分の順番を待っていた。人手の要るカウンターの窓口は幾つもあるのに、駅員のいる窓口は二つきりで、こちらの方にはもっと長い列ができていた。一番短い行列は、と見ると、”No change given(おつりはでません)”の発券機のところであった。

 
 ハンドバッグの小銭入れを見ると、二ポンド硬貨が三枚、五十ペンスが一枚、十ペンスが一枚あるではないか。五枚の硬貨を握り締め、一日乗車券を求めて早速「ノー・チェンジ・ギブン」に並んだ。

  
 私の番がやってきて、ゾーン1と2の表示画面をタッチし、六ポンド六十ペンスを発券機に押入れた。去年と比べて、何という値上がりなんだ、と心の中で機械に文句を言いながら、切符の出てくるのを待った。ところが、待てども、待てども求める切符が出てこない。画面表示を見ると、残りの切符一枚、とある。後ろにいた女子学生が、ヘルプの画面を押せと言いながら、私を押し退けて進み、画面をタッチした。だが、何の変化も起こらない。その後私が何度ヘルプ画面をタッチしても、助っ人は出てこない。私の後ろにはすでに長い列ができていた。キャンセル表示を押しても硬貨は戻ってこなかった。そのうち、女子学生は列を変えた。女子学生の後ろにいた、外国人観光客と見られる二人連れの男性の一人が進み出て、事情も聞かず、勝手に画面にタッチした。その途端に、電気でも切れたのか、画面は真っ黒くなってしまった。びっくりしたのは、私ばかりでなく、その二人の男性もそうであったらしく、その場から居なくなってしまった。六ポンド六十ペンスは大金だ。発券機に食べさせてなるものか。私の六ポンド六十ペンス奪還の戦いが始まった。

   
 周りを見渡すと、居る、居る、どこの地下鉄の駅にもいる、改札口で道案内や疑問に答える駅員が。事情を説明すると、窓口の右側に居る貫禄十分な黒人女性を指し、あの女性の所に行きなさい、と言う。そこで、窓口に行き、カタコトの英語を話す観光客に、うんざりした顔の駅員が求められた切符を発券するのを待った。それから、またも外国人の私が「ノー・チェンジ・ギブン」のマシーンに、二ポンド硬貨三枚と五十ペンス硬貨を一枚、十ペンス硬貨を一枚、等と説明すると、ムッとした顔で、「どのマシーンか」と言う。「ノー・チェンジ:ギブン」の発券機は一台しかない。だから、「ノー・チェンジ・ギブン」と言ったではないか、と思いながらも、またインド系、ひょとしたらパキスタン系かも知れない、改札口に立つ駅員のもとに走った。どのマシーンかと言っている、私は右端と言ってるんだけど、と言うと、相変わらず真っ黒な画面の、その発券機のところへ私を連れて行き、スクリーンの右上に白く記入されている番号を指し、この番号を言いなさい、と教えてくれた。またも窓口の駅員の所へ行き、順番待ちをし、番号を告げると、しぶしぶ立ち上がり、発券機の裏側へ行き、しばらくして帰って来て、金が入っていない、と言う。余りのことに私は怒鳴るように、二ポンド硬貨を三枚、五十ペンス硬貨を一枚、十ペンス硬貨を一枚、入れた、と言うと、彼女は、うん、確かに六ポンド六十ペンスだけれど、お金が入っていない、私の上司の所へ行きなさい、とのたまう。どこに貴女の上司はいるの、と聞けば、左に曲がって、とここまでは良く聞こえたが、厚いガラス越しと、周りの騒音と、彼女の訛りと、説明のまずさで聞き取れない。私の額からは大粒の汗が滴り落ちている。また改札口の駅員の所に逆戻りし、彼女は自分の上司の所へ行けと言っている、どこに居るのか、と尋ねた。すると連れて行ってあげる、と言って通路を少し歩き、右手の扉の前で観光客の相手をしている一人の白人を指し、あの人が彼女の上司だ、と言う。世界の三大商人はユダヤ人、中国人、そしてインド人だから、インド人にも気をつけよ、と聞くが、インド系の人達は大概親切だ。
  

 その扉の中には数人の男性がいたが、白人ばかりだった。その中の大男の人が、何が起こったんだ、とぞんざいに聞く。私は汗を垂らしながら、またも同じ話を長々とする。すると小柄な男性が書類を持ち出し、何やら記入し始めた。この男性が改札口の駅員が教えてくれた、窓口の女性駅員の上司だ。大男の駅員と私との遣り取りを聞いていたに違いない。ゾーン1・2か、コインはどんな種類を入れたか、一日乗車券か、と尋ねた上で、私にサインをさせ、その書類を渡しながら、窓口に再び行けという。汗は私の額から滴り落ち、すでにハンカチはグチョグチョになっていた。
 
 
 書類を持ち、感じの悪い窓口の女性の元へと行き、また順番待ちをして、その書類を差し出した。すると、あなたは七ポンド発券機に入れた、と言った、などと言い出すではないか。頭に血が上って、カッとなったが、英語は母国語ではないのだから、喧嘩をしてもどうせ言い負かされるに決まっている、それにテンプル教会も待っているし、と瞬時に判断して出かかった言葉を飲み込んだ。渡した書類はまるで水戸黄門の印籠のように、効き目を見せて、彼女は大人しく、立ち待ちのうちに一日乗車券を差し出した。言うのも悔しいけど、サンキュウと言って受け取り、改札口の駅員の所へ走り、助けて下さって有難う、と礼を言った。
  
 
 すると、一体何が起こったんですか、とまた聞くではないか。エーッ、また説明しなければいけないのか、と思ったが、彼の親切がなかったら、一日乗車券を取り戻すことはできなかった、と思い直して、一から説明して、助けて頂いて有難う、ともう一度礼を言って、改札口を通った。
  

 地下鉄のテンプル駅を出ると、すぐ目の前は急な坂道で、その上の道路を自動車が切れ目なく走っている。チャーリング・クロスからテンプルへと続くストランドに違いない、と見当は付くが、何しろビクトリア駅での一騒動の後である、私はすっかり疲れ果て案内書も見る気もしなかった。汗は引いたが、まだ身体は興奮から冷めていなかった。もうこうなったら聞くに限ると、通りがかりの若い、美しい女性に声をかけた。すると予想に反して、きれいな英語が返ってきたので、私は嬉しくなってしまった。彼女はパブリック・スクール出身に違いないと勝手に決めて、会話を楽しむことに決めたのだが、残念ながらテンプル教会を知らないとのことであった。テンプル教会はロンドンで最も古い教会の一つであって、丸い形をした珍しい教会なのよ、と私はしゃべった。あの教会かも知れない、ご案内しましょう、と高いヒールの靴をカッカッと鳴らしながら、坂道を登り、先を歩いてくれた。案内された教会はテンプル教会とは全く異なるものであって、少々がっかりしたが、歩いている間に交わした会話は楽しいものであった。
  

 あの建物が王立裁判所よ、と説明してくれた時、彼女は今仕事中ではないかと気付いた。お仕事中なのでしょ、誰かに聞きますから、私は大丈夫、助けて下さって有難う、貴女とお話できるチャンスを持てて、とても嬉しい、と言って別れた。それから二人の若者に尋ねたが、テンプル地域にいながら、テンプル教会を知らなかった。
  

 この時になって、やっと持参している案内書を見る心のゆとりが生まれた。何と、王立裁判所の道を隔てた斜め前に、目指すテンプル教会はあった。カフェや土産物屋に挟まって、意外なほどに狭くて小さな入り口があった。その入り口には木製の観音開きの戸が取り付けられており、右側が内側に畳んであって、ひと一人が通ることのできる広さであった。いかにも古いと思わせる形の扉であった。
 

 小路を抜けると、広くはないが開けた空間があり、その中庭には三・四本の、細い木々が立っていて明るい感じだ。その木々は長年踏み固められたと思われる硬そうな土の上に、細い電柱のように立ち、上部に小枝を茂らせる仕立てがしてあった。扉半分と短い小路を隔てているだけなのに、ストランドの喧騒がまるで嘘のように静寂さが当たりに流れていた。あちこちに少人数のグループの観光客が訪れていたが、皆声を上げることなく、静かにガイドの説明を聞き、興味深そうに当たりを見渡し、教会を眺めていた。
 

 テンプル教会はケンブリッジにあるラウンド・チャーチが丸い建物でだけで、独立した小さな教会を形成しているのに対し、丸い建物が他の建物に通じていた。
 

 その丸い建物に入って行こうと階段を下りると、教会の入り口の木製の戸はしっかりと閉じられていた。その入り口の前にラテン系と思われる母娘がいて、娘の方がしきりと戸の鍵穴から中を覗いていた。どこの国の言葉か分からないが、母親が自分の母国語の間に、”It’s closed.(閉まっている))””It’s not open.(開いていない)”と英語を挟んで伝えてくれた。観光客であるならば、こんな英語で十分だ、と妙に納得した。
 

 どうして、インターネットで調べて来たのよ、今日と明日は開いているはずでしょ、と私は言った。この教会は八月には五日間しか一般公開していない。その母親は、私も調べて来た、と言い、閉まっているのは、数日前に起こった暴動のせいだ、とも付け加えた。私は、そうかもしれないとね、と頷きながら答えた。
 

 教会の入り口に通ずる下り階段の右側に、小型の広報版が据え付けられてあった。それを読むと、内装工事をしているので、九月十二日まで教会を閉めます、などと告示されていた。ウッソー、来年また来なくちゃいけないの、どうしてくれるのよ、今日という日は何ていう日なの、あの地下鉄の一件といい、今日の私は三隣亡だ、と心の中で叫んだ。そして、今度は英語で”Oh,what a day!”と小さくつぶやいて,テンプル教会をあとにしたのだった。
  

Posted by 豊川堂英語教室 at 22:03Comments(0)顧問 清水宏子より